2学期に入って、学区の境界を探す探検に全く出かけることができなくなってしまっています。それは、残す境界は、これまでの距離の倍以上と言っていいほど遠くにあるからです。朝の短い時間では、なかなか出かけられないため、どうしたものかと思案中です。

そのため、6月以降、毎日、通学路を散策しています。通学班とあいさつをして、通学路の安全点検も兼ねて、周辺を歩く。自分でいうのもなんですが、なかなか健康的な毎日です。そんなある日、というか10月18日、岩中の通学路を歩いているとき、新たな発見をしました。それは、常磐南小学校にまつわる石碑です。これまで30回ぐらいは通ったはずなのに、一度も気づかなかったとは、情けない限りですが…。 

学区の方の門前ですが、図々しく石碑をのぞき込みます。そこには「東乙見小学校跡(常磐南小学校前身)」の文字が。そう、ここに常磐南小学校の前身である「東乙見小学校」があったということなのです。地域の方々には当たり前のことなのかもしれませんが、私にとっては大発見です。時代は、明治22年~明治39年と記されていました。現在は、個人の宅地になっていると思われますが、なんとも感慨深いものがあります。

 

学校に戻ると、早速、常磐南小学校の歴史を紐解こうと、いろいろな冊子を調べました。すると、ありました。明治22年、町村名変更にともない、箱柳、小呂、稲熊、板田、田口、大井野、岩中の各村が、乙見(おとみ)村と変わり、板田に東乙見小学校、箱柳に西乙見小学校が作られたとの記録が。東乙見小学校は、平屋建てで2教室、先生は1人だったそうです。そして、明治39年、大規模な町村合併にともなって、東西の乙見小学校が一緒になり、常磐村立常磐南尋常小学校ができたのです。ちなみに、現在の場所に学校が移転したのは明治40年のようです。「常磐南の歴史と共に」の一歩をやっと踏み出せた気分です。今度は、西乙見小学校の跡地も探してみたいものです。

余談ですが、常磐南小学校100周年記念は、2007年(平成19年)に行われました。周年行事は、創立記念日の翌年に行われるので、常磐南小学校の創立は、東乙見小学校の創立である1889年(明治22年)ではなく、常磐村立常磐南尋常小学校が創立された1906年(明治39年)となるわけです。「う~ん、なるほど、なるほど」と最後に、校長室入口上の年表を見たところ、確かに、「明治39年 常磐村立常磐南小学校創立」と大々的に書かれています。ところが、ふと横に目をやると、「明治12年 板田に東乙見小学校」の文字が。ちゃんと東乙見小学校の創立も書かれているではありませんか。って「明治12年」?明治22年では?どっちだ???これは内緒にしておこうと、校長室に戻りました。