は だ な し じ ょ う し
秦梨城跡
秦梨城・秦梨城山城

奴田地内の秦梨城の供養塔と城跡石碑

神谷地内の秦梨城山城跡 粟生将監永信の城と伝えられる

 三河堤によると,『秦梨村に二城あり』とある。現在,奴田と神谷地内に城跡とみられる石垣が残されている。荒川同楽句碑のある小公園の入口に,『御城跡入口 これより一七三米』と刻まれた石碑が建てられている。民家の横を通り抜け,少し上の畑に出ると,その奥には『秦梨城跡』の碑が建っている。城跡は,県道の拡幅工事により北斜面がけずりとられたが,大略は旧状態を保っており,東側から突き出る山稜の先端を掘切で遮断した平坦部が城域を作りだしている。堀の幅は,最大5m,深さ3mで,堀切と呼ばれるにふさわしいV字形に掘り取られている。南側をせき止めて堀に水をためたようである。もう一つの城は,ここから南の,乙川に迫り出した山頂にある山城跡である。戦国時代,もともとは,鎌倉幕府の被官としてこの地に就任したが,南朝に尽くし,足利幕府に背いて三河了撲の先頭に立った粟生氏の居城で,後は松平,今川について,日近の合戦では織田方の攻略にかろうじて落城を免れたが,永録4年(1561)板倉弾正の岡崎城撤退に伴って,粟生将監も松平方に城を明け渡し,駿河に去った。その後,酒井図書が秦梨城に入るが,この頃から次第にこの両城とも必要性が薄れ,やがて廃城となってしまった。

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