ぼくの町の北野用水
小学校中学年 内容項目 郷土愛
自作資料【緑丘小学校 松嶋美保先生】
5月の晴れた日曜日、ぼくは家族と北野用水のそばを歩いた。風が心地よくふいている。用水のも水もたっぷりと流れていて、気持ちがいい。
とつぜん、父がぼくにこう言った。
「この北野用水がどうやってできたのか知っているか?」
ぼくはとても驚いた。なぜかというと、今までそんなことを考えもしなかったからだ。毎日のように見ている、この北野用水がどうやってできたかだなんて・・・。
「知りたい!教えて!」
ぼくは、叫んでいた。そして、父はゆっくりと話し始めた。
今から300年ぐらい前、新堀村本田又左衛門は、水に恵まれない農民の生活に心を痛めていた。しばしばおこる日照りのため、ほとんどの作物がかれ、食べるものがなくなってしまうのだ。
「田んぼがあっても、雨だけがたよりでは百姓たちも不安だろう。」
「百姓たちのために用水を作ろう。」
又左衛門は、となり村の小原権太夫に相談し、二人で新堀村に用水を引くことを決心したのである。それは、1653年2月のことであった。
二人は、藩庁に許しをもらいに行った。しかし、とても無理であろうということで、許可されなかった。だが、二人はあきらめずに、何度も何度も許しをもらいに、城まで出かけた。この二人の真剣さに、藩の役人もとうとう用水路を引く許しをあたえた。
そこで、二人はさっそく工事にとりかかった。ところが、思ってもみないことが起こった。それは、農民たちの間から反対の声があがったことである。矢作川のすぐそばにある長瀬村の農民たちからである。
「おらたちの村に用水路はいらねえんだ。」
「用水路を作る金は、おいらたちが払うんだ。そんなお金、おれたちにはねえ!」
「用水を作ると、おらたちの田んぼがつぶされるんでねえか。」
自分たちのことしか考えない農民たちにはらを立てながらも、二人はおだやかに分かってもらえるまで話をした。そして、自分たちの土地をすべて農民にやってしまった。金も自分たちの持っているすべてを注ぎこんだ。
工事は、ほんの少しずつしか進まなかった。しかし、二人はくじけることなく、励ましあいながらがんばったのである。
こうして、本田又左衛門と小原権太夫が作り始めた用水路は、23年という長い年月をかけてやっと完成した。できあがった用水路は、全長70mもの長さであった。
用水路のおかげで、新堀村だけでなく、多くの村でたくさんの米がとれるようになった。こがね色にかがやく新堀村の田んぼを見て、又左衛門はこう言った。
「これで夢にまで見たかがやく新堀村の姿だ。いつまでも、いつまでもこのかがやきがなくならないことを祈ろう。」
岡崎に住んでいても、ぼくにはまだまだ知らないことがたくさんあるんだなと思った。 だから、今年の夏休みには、友だちといっしょに岡崎の歴史について調べてみようと思った。ぼくたちの町をもっともっと大好きになるためにも。