岡崎の科学者 - 木村資生 博士
どんな子どもだったの?
■生い立ち
木村資生博士は大正13年11月13日,岡崎市十王町に生まれた。父は木村逸作,母は木村かなである。
生家は鋳物業を350年営んでいた。現在は岡崎市役所となっている広大な敷地には多くの職人が出入りし,フイゴを吹く音が忙しく辺りに響いていた。これにちなんで木村家の屋号は「吹屋」とされた。市役所の南を流れる菅生川にかけられた橋は今も「吹矢橋」と呼ばれているが,この名も木村家に由来するといわれている。
木村家一族が岡崎市に登場するのは今から350年余り前の寛文5年のことである。開祖・木村重左衛門が今の滋賀県辻村から,鋳物の最先端技術を携えてこの岡崎に移住してきたのが始まりだが,以来の新進気鋭の精神は子孫代々受け継がれたようである。古くは名のある寺院の大梵鐘の製造などで名を馳せ,新しくは木村資生の叔父・俊三は鈴木自動車を興し,社長として活躍。また一族は多くの学者を輩出している。
木村資生の生まれ育った環境も,先進性に富んだものだった。父・逸作は大変な趣味の人でカメラ,洋画,そして植物栽培をよくし,それらは玄人はだしであった。母方も政治家,学者,歌手,俳優など多彩な才能の持ち主が多く,また,母かな自身も教育ママとは程遠い,大らかな明るい人柄で,幼少期の木村資生の周囲は個々の興味や意志を尊重する自由な空気が溢れていた。
■数学と植物の面白さに 開眼した少年期
少年期の木村資生の凝り性は父親ゆずりということができるだろう。興味を持った対象は,納得のいくまで追求せずにはいられなかった。
投(なぐり)小学校(現・根石小学校)時代は理科実験に興味をもち,実験三昧にあけくれた。自室に実験道具を取り揃え,近所の薬局に毎日のように出入りし,購入した薬品を少年向きの理科の本を片手に調合しては楽しんだ。勢い高じて爆発事件まで起こしたこともあるほどである。他にもつりや将棋ものめり込んだが,なかでも資生少年が熱中したのが植物採集だった。
先にも述べたが木村資生の父・逸作は植物栽培を趣味とし,屋敷内はいつも様々な草花で溢れんばかりだった。この環境に幼年期から身を置いた資生博士は,どうして球根から花の美しい色・形が生まれるのか,不思議で仕方なかったという。
こうして理科的なことには抜群のキレを持つ少年だったが,学校の成績は奮わなかった。自分で想像し考え抜くことは得意だったが,教師の言うことをそのまま暗記するというマニュアル的な教えは体質に合わなかったようである。
しかし5年生になって今泉健一先生が担任になると,状況は一変した。今泉先生は資生の理科に対する洞察力,独創的な理解力を見い出し,資生の疑問に丁寧に答えるというかたちで資生の能力を伸ばしていった。
旧制岡崎中学校(現岡崎高校)時代は,植物採集に熱中した。これは植物の鳥沢貫一先生の影響によるものである。いつも植物のことばかり考え,日曜ともなると自宅から十数キロもある桑谷山まで足を伸ばして植物採集にはげんだ。理科室には資生少年専用の机が置かれ,恩師と教え子が共に顕微鏡を覗く様子が毎日のように見られた。資生の植物への熱中ぶりは学校でも「植物博士」のあだなで呼ばれるほどだったが,本人もいつしか「植物学者になりたい」と願うようになっていた。
資生少年愛用の顕微鏡 | 資生先生の愛用の机 |
また「数学者になってはどうか」と数学の黒田孝郎先生にすすめられたのも岡崎中学校時代である。3年生になったころ,木村家は食中毒に見舞われ,まだ小学校4年生だった弟を亡くすという不幸に見舞われた。資生も一ヶ月の自宅療養を余儀なくされたが,その間,習い始めたばかりの幾何学の教科書をひもといた。すると,難しいと聞かされていたこれらがすらすらと頭に入り,全快時には他のどの生徒より進んでいるという有様。その後もますます数学の面白さに魅了されていった。
黒田先生の授業は抽象代数学からギリシャ哲学,西田哲学まで登場する高尚な内容で,資生の学問への扉をまた一つ開くこととなった。後に木村資生博士が数学理論を遺伝学に取り込んだ研究をすることになろうとは,誰も予想していなかった。
■集団遺伝子学への道
昭和17年,木村資生は旧制第八高等学校に進学。ここでは植物形態学者である熊沢正夫教授のもとでユリ類の染色体の研究に熱中した。この研究成果は四つの論文としてまとめられたが,後に教授との共著論文として学術誌に発表されている。
資生先生のスケッチ
大学は京都大学理学部の植物学科へ進学。当初は農学部の木原均教授に師事することを希望していた。木原先生の小麦のゲノム分析について熊沢教授から聞かされ,感銘を受けていたからだ。しかし農学部は兵役に取られてしまう,まずは理学部で勉強してみてはという木原先生のアドバイスに従ったのだ。
入学してからは遺伝学と名のつく講義に片っ端から出席した。そのうち同じ遺伝学でも数学と関連の深い理論遺伝学に興味を覚えるようになった。これは当時のヒーロー・湯川秀樹博士の理論物理学に影響されてである。理論物理学者が物理学でやっているように,遺伝学でも数学を使って自然現象を記述したいと木村資生は考えた。
京大卒業後2年間は京大の木原研究室に勤め,集団遺伝学の研究に励んだ。この頃出会ったのがアメリカのライト教授の名著「メンデル集団の進化」である。この難解な著書の理解に没頭しながら,木村資生はライト博士に憧れ,夢にまで見るほどだった。
昭和24年,静岡県三島市に国立遺伝学研究所が完成,木村資生は研究員として採用される。ここでも集団遺伝学の計算に熱中していった。だが,当時は「生物学に数学なんて役立つはずがない」という意見が一般的で,木村資生の研究は評価されず,一人孤独で研究するしかなかった。
■分子進化の中立説
昭和39年,三島の遺伝学研究所に新設された集団遺伝部の部長に就任。この頃からアミノ酸レベルでの進化速度の推定値研究が出始めた。ここでこれまでの研究に分子生物学を加味して分析・追求するうちに,行き着いたのが,分子レベルでの進化の主役は自然淘汰ではなく,中立的な突然変異の積み重ねであるということである。
この論文がイギリスの科学雑誌「ネイチャー」に掲載されたところ,世界的な論争になり,この状態は十年も続いた。しかしその後,DNAの解析が進み,塩基配列データーが次々と出されたことが「中立説」を実証することとなった。
中立説を提唱した10年後の昭和60年に木村資生博士は英国ケンブリッジ大学出版局から「分子進化の中立説」として出版した。これは世界中で翻訳され,現在の進化論のバイブル的存在となっている。
その後,博士は全米科学アカデミーからカーティ賞をまたフランス政府から国家功績勲章騎士賞を授与され,平成4年には進化学のなかでもっとも権威のある賞であるダーウィンメダルを受賞。またフランスのギ・ソルマンがノーベル賞学者を中心に20名のインタビューをまとめた著書『20世紀を動かした思想家たち』のなかで「現代最高の生物学者」と紹介されている。
文化勲章受章時の 木村資生博士 |
木村資生博士の著書 |
どんな研究をしたの?
■運のいいものが生き残る
「サバイバル・オブ・ザ・ラッキエスト」は,ダーウィンの「サバイバル・オブ・ザ・フィッテスト」に対して博士自身が考案した言葉である。木村博士が「分子進化の中立説」を提唱する前の進化学の世界では,ダーウィンの唱えた「適者生存」を主軸とするネオ・ダーウィニズムの考え方が主流を占めていた。これは自然淘汰説と言い換えることもできる。生命は気象や災害など,さまざまな環境の変化にさらされる。その変化についていけなかったものは淘汰され,環境に適応する遺伝子のみが残って進化を遂げるというものである。
これに対して木村博士は「運のいいものが生き残る」と唱えたわけである。
もともとは木村博士も自然淘汰説派であった。しかし確率論を駆使して計算すると,どうしても自然淘汰説では説明しきれない部分がある。
よく知られているように,ひとつの個体はDNAの4つの塩基(アデニン,チミン,グアニン,シトシン)からなる命令文「ゲノム」に従って成長を続ける。その数は約60億言語。ここには絶えず何千万,何億,何十億という突然変異が起きている。この膨大な変異が自然淘汰にかかるには,よほど子どもの数が多くなければならない。むしろ変異の多くは,環境とは全く関係のないところで起きていると考えるべきではないか。
またこれらの一つひとつの変異は小さい。年月によって蓄積され,いずれかが生き残るわけだが,どれがセレクトされるという約束ごとはない。気の遠くなるような計算をくり返された結果,中立,「運のいいものが生き残る」という結論が出された。遺伝子レベルで考えると,進化の主流をなすものは淘汰ではなく,こうした突然変異という偶然の積み重ねによるものなのである。
ウサちゃんの耳は, 上についてなきゃだめなんだよ~ん |
どんな賞をもらったの?
■ダーウィン以降 最高の業績
「DNA鑑定」という言葉が一般的に人の目に触れ,DNAの存在自体も珍しいものではなくなった昨今,生物の進化の秘密は次々とベールを脱ぎ,全容を明らかにしようとしている。
岡崎市出身の木村資生博士がはじめて「分子進化の中立説」を発表した1968年当時は,化石を頼りに「表現型レベル」(目に見える進化)の系統樹を描く状態から,分子遺伝学を取り組む研究へと移行する,いわば分子進化学の黎明期にもあたり,木村博士はその樹立を担ったまさに草分けといえるだろう。
木村博士のデザインした
系統樹を表した壁掛け
木村博士の研究対象は「集団遺伝学」である。これは生物の集団遺伝的構造や変化,またその仕組みを調べる学問である。
博士の提唱した「分子進化の中立説」は,後に「サバイバル・オブ・ザ・ラッキエスト」という素晴らしいネーミングで世界中の学者の誰もが認める「事実」となったが,発表当初は激しい非難にさらされた。とくにダーウィンのお膝元であるイギリスでは,博士を「地獄の悪魔」にたとえる人物もいたほどである。しかし遺伝子の分子レベルでの研究がすすみ,博士の提唱を裏付けるデーターが続々と出されるようになると避難は賞賛へと変わり,「分子進化の中立説」は,「ダーウィン以降,進化論の分野においてなされた最高の業績」と評価されるまでに至ったのである。
■木村博士の栄誉歴
1959 | 日本遺伝学会賞 |
1965 | 英中オックスフォード大学・ウエルドン賞 |
1973 | 日本学士院賞 |
1970 | 日本人類遺伝学賞 |
1973 | アメリカ科学アカデミー外国人会員 |
1976 | 文化勲章・文化功労者 |
1976 | フランス科学アカデミー外国人会員 |
1977 | 岡崎市名誉市民 |
1978 | アメリカ芸術・科学アカデミー外国人会員 |
1982 | 日本学士会員 |
1986 | フランス政府国家功績勲章騎士号 |
1987 | アメリカ科学アカデミー・カーティー賞 |
1987 | 朝日賞 |
1988 | 第四回国際生物学賞 |
1992 | 英国王立協会ダーウィン・メダル |
1993 | 英国王立協会外国人会員 |
1994 | 叙勲 勲一等瑞宝賞 |