小豆坂古戦場

 徳川家康登場以前の西三河の地は、東の今川、西の織田両氏にはさまれ、たびたび戦禍に見舞われるところとなりました。三河を統一した松平清康(家康の祖父)は、天文4年(1535)、尾張守山で家臣に殺されました。弱体化した松平氏に対して織田信秀(信長の父)は、安城を起点に矢作川東岸部への進出を図りました。これを望まない今川義元は、天文11年(1542)軍勢数万を岡崎東部生田原(しょうだはら)に進め、出撃してきた織田勢4千とこの小豆坂で戦いました。
 この時、織田方の7名が槍をふるって奮戦し、小豆坂の七本槍と呼れています。彼らが槍を立てて休息した松が槍立松だと伝えられています。
 これ以降、今川氏との関係をさらに深くした松平広忠(家康の父)に対して、天文17年(1548)、織田信秀は岡崎攻撃の準備を整え、一方、今川義元は広忠救護のため軍勢を送り、両軍は再び小豆坂で合戦におよびました。この戦いは松平家臣酒井正親らの活躍により今川松平連合軍優勢の内に展開しました。
 今川-織田両者の争いは、永禄3年(1560)の桶狭間の戦いまで続きました。
 桶狭間の戦い以降、独立を果たした徳川家康の最初の難関は一向一揆との戦いでした。永禄7年(1564)、土呂・針崎の一揆勢と家康が小豆坂・馬頭原で衝突し、家康側の勝利により一揆は終息を早めることになりました。
 このようにして小豆坂は、数々の合戦の場として、槍立松、血洗池(ちあらいいけ)、馬洗池など多くの伝承を残しています。